大谷吉継を決断させた石田三成の「評価」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第10回
■三成の「評価」に報いる獅子奮迅の活躍
三成は長年の付き合いから吉継の能力を高く評価していたのでしょう。吉継を北国口の大将に任じ、前田利長(まえだとしなが)を牽制(けんせい)する重要な役割を任せます。
吉継は北陸の諸侯の調略を行い丹羽長重(にわながしげ)や山口宗永(やまぐちむねなが)たちを味方に引き入れることに成功し、前田家の南下を遅らせます。さらに流言を流して前田家を動揺させ、撤退に追い込むなど、その大役を見事に果たします。
また、関ヶ原の戦いの本戦では、大谷家に加え戸田勝成(とだかつしげ)・平塚為広(ひらつかためひろ)たち5,700人を率いて右翼に布陣します。そして正面に陣取った藤堂家、京極家と激戦を繰り広げました。吉継は松尾山の小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りを予測しており、別動隊を編成し小早川兵15,000を迎撃します。為広たちの力を借りつつ、その指揮力を発揮して、数に勝る小早川の兵を押し返すことに成功します。
吉継は計数や調略だけでなく実戦の指揮においても、獅子奮迅の活躍をみせ、その評価に値する事を証明して見せます。
しかし、側面にいた脇坂家や朽木家までが寝返った事で、支え切れずに壊滅します。最後、吉継は戦線を離脱せずに関ヶ原にて自害します。
■働きがいのある環境の重要さ
明から秀吉が冊封された際に、吉継は三成や長束正家(なつかまさいえ)たちと共に正二品都督僉事に任じられており、その後の五奉行に連なってもおかしくない地位にありました。しかし、その直後、病によって活躍の場を失ってしまいます。
現代でも、病気が原因で職場を離れる事なり、今まで苦労したものが無に帰する事は多々あります。
そんな状況にあっても吉継を高く評価し、信頼していたのが三成です。吉継は家康有利と判断しながらも、西軍への参加を決めます。それは、活躍の場を用意してくれた三成からの「評価」への報いのように思われます。もし、吉継が東軍として活動していれば、江戸時代を通じて大名として存続できたかもしれません。ただ、徳川幕府において往年のような活躍の場を与えられる事はなかったと思います。
時代に関係なく、自身を高く評価してくれる組織や人物の下の方に属する方が、働き甲斐があるのは間違いないでしょう。最後に活躍の場を得たのは吉継にとっては本望だったのではないかと思います。
- 1
- 2